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サフィン「僕は奇跡だよ」

入れ墨
コートにラケットを投げつけるサフィンはあまりにも有名ですが、私の最も印象に残るサフィンは、プラクティスコートで見た半裸のサフィンでした。真夏の太陽の光を受けてうっすらと汗をかいた背中に大きな入れ墨が。おお!これがかの有名な太陽の入れ墨!たくましい背中に大きく描かれた太陽は、まさに彼自身を象徴するかのごとく、雄々しくさんぜんと輝いていたことを思い出します。

背中の入れ墨の写真:
http://images.google.com/imgres?imgurl=http://farm1.static.flickr.com/185/437262224_c00c52cd97_m.jpg&imgrefurl=http://cornedbeefhash.wordpress.com/2007/03/28/tattoo-watch-continues-marat-safin/&usg=__HFOZc2hv4oG8DC1GR4rDKMxKE1o=&h=240&w=160&sz=14&hl=en&start=2&sig2=Gq3nNY3YULJlZeF5RHXwjg&um=1&itbs=1&tbnid=6QM3bb00REEmGM:&tbnh=110&tbnw=73&prev=/images%3Fq%3Dsafin%2Btatoo%26hl%3Den%26client%3Dsafari%26rls%3Den%26sa%3DN%26um%3D1&ei=wDkgS-fWL4iVtgfd2sikCg

テニス選手の宿命
マラット・サフィン Marat Safin は銀のテニスラケットを持って生まれたと言われています。母親Rausaは元トップ10のテニス選手。父親MikhailはスパータッククラブSpartak Clubの経営者。 1980年1月27日モスクワに生まれ、テニスクラブを遊び場として育ったマラットは、まさにテニス選手になる宿命を負って生まれてきました。

母親が本格的にマラットにテニスを教え始めたのが彼が6才のときでした。マラットはサッカーをやりたかったのですが、「サッカーの才能はない」と両親から言われ、興味のなかったテニスをやり始めました。本当にやりたかったことをやらせてもらえなかった・・・この想いはアガシに通じるものがあり、親から押し付けられたテニスへの屈折した想いが一生ついてまわります。

テニスへのlove & hateはマラットのテニス人生を複雑なものにしてきました。記者会見ではI’m suffering 「苦しんでいる」の言葉がよく聞かれたものです。天才と呼ばれたにもかかわらず、なかなかグランドスラムのタイトルがとれない。「どうしたサフィン?」という記事の見出しが多くなるにつれて、サフィンはプレッシャーでますます勝てなくなってしまう。激しい性格の彼はコートでの感情コントロールができず何度もラケットを叩き付けては罰金をとられていました。

母親コーチ
少年時代、母親がコーチだった選手に、ジミー・コナーズ、アンディー・マリーがいます。ジョコヴィッチは母親がコーチではありませんが、元フェデカップの代表選手から習っています。彼らのテニスをみていると、女性からテニスの基本を習った選手に共通点があるように思われるのです。

コナーズ、マリー、ジョコヴィッチ、サフィンに共通するのは、ヴァラエティーに富んだショットメイキングができること。私の経験上から、男性コーチからはサーヴとフォアハンドを主体としたパワーテニスを学びましたが、女性コーチからはニュアンスのあるテニス、つまりさまざまなショットメイキングを覚えることによって、パワーに頼らない感覚feelのテニスを学びました。

私は特に彼らの両手バックハンドに注目しています。彼らはバックハンドが一様に強いのです。バックハンドが強いと、コート全面を使った展開が可能になり、特にダウンザラインのバックハンドは最大の威力を発揮するのです。

テニス留学
13才になったマラットは身長も親をこすほど大きく逞しく成長しました。母親はマラットがこれからプロとして活躍していくには、トーナメントの機会もテニス施設にも欠けるロシアでは不可能であることを熟知しています。

「どうしてもマラットを海外で修行させなければ!」

母親はマラットを連れて、ニック・ボレテリのテニスアカデミーを訪れました。しかしボレテリはマラットに才能を見いだせず奨学金入学を断わっています。口惜しかったのか、マラットは後にボレテリのことを「彼はテニスのことを知っていない。」とコメントしています。余談ですが、ボレテリのアカデミーで育ったアガシも同じことを言っています。つまりボレテリ自身は正規のトレーニングを受けたトーナメント選手ではないので、コーチの才能はあってもテニスはうまくないのです。

今度は14才になったマラットを連れて、母親はスペインのヴァレンシアのクラブを訪れました。ディレクターである元プロ選手マリア・パスカルにマラットのテニスを評価してもらうことが目的でした。

「息子には将来性があるのか?」

マラットの才能に強い印象を受けたパスカルは、彼女のクラブでマラットを修行させることを勧めます。しかしサフィン家にはスペイン留学をさせる資金などありません。パスカルはマラットが留学できるように、スイス資産家のスポンサーを探し出してきました。そのスポンサーのおかげでマラットはヴァレンシアで18才になるまでの4年間、スペインにてトレーニングを積むことになったのです。

14才で言葉も知らない異国での訓練は、マラットにとってとても辛いものでした。しかし語学の才能に恵まれたマラットはスペイン語を間もなくマスターすると同時に、英語も流暢に話せるようになります。(アンディー・マリーもスペイン留学をしていますが、スペイン語があまり話せません。これは多分皆が彼に英語で話しかけたためではないかと思います。)

プロ転向
1997年はマラットにとってプロ転向の重要な年となりました。400番台だったマラットは、ポルトガルのチャレンジャーで優勝。ついに200番を切りプロ転向への転機の年となったのです。マラットが17才のときです。

今までチャレンジャーで戦っていたマラットは、翌年初めてグランドスラム出場する機会がやってきました。フレンチオープンです。スペインでトレーニングを受けたマラットはクレーは自分の庭のようなもの。当時ランキング116位のマラットは初戦で20位のアガシを破り、そして2回戦でも、前年度のチャンピオンのキールテンをも破ってしまいました。18才の青年の快挙に世界がアッと驚いたのは言うまでもありません。

同年1998年にマラットは来日しています。9月のデ杯で鈴木貴男選手と対戦して 7-6, 6-2, 6-3でマラットが勝っています。この試合を覚えている方もいらっしゃると思いますが、この時の鈴木選手のランキングは128位。マラットはすでに54位まで駆けのぼっていました。

早すぎたUSオープン優勝
そして2年後、マラットが20才のときです。クレーとハードの両方のサーフェスで勝ち続けるマラットはなんと7タイトルを独占。そしてUSオープンでは、無敵のチャンピオン、サンプラスを破って堂々優勝をなしとげたのです。

エースに続くエース。193cmのそびえるタワーから落ちる210kmの爆雷サーヴをサンプラスはリターンができません。サーヴ&ヴォレーでネットダッシュをして必死に対抗しますが、ことごとくパッシンショットの嵐に合い呆然とたちすくむサンプラス。 4-6, 3-6, 3-6 大きな音をたててサンプラス帝国が崩壊するのを私たちは目撃したのです。

マラットの優勝のインパクトは、敗者のサンプラスだけでなく、勝者のマラットにとっても皮肉な結果を招くことになります。サンプラスはあまりにも見事に完敗してしまったため、そのショックから立ち直るのに2年の歳月を要しました。どうしてもグランドスラムに勝てない。サンプラスのスランプ時代が始まったのです。

マラットは反対にあまりにも完璧なテニスをして優勝しまったため、幻のテニスを追い続けなければならない運命を負うことになります。

「僕は不思議なことにあの試合のことはほとんど覚えていないんだ。」

心と体と技が完全に一致したマラットのUSオープンは、彼の記憶にないほどの無心の究極のテニスだったのです。

完璧主義者のマラットが求めたのは、何がなんでも勝つテニスではなく、パーフェクトなテニスだったと言われています。USオープンの優勝後、2度目のGSタイトルのオーストラリアン・オープンまで、長くて苦しい5年の歳月はファンにとっても辛いものでした。

「僕はまさか自分が優勝するとは思ってもみなかった。そしてその後すぐ世界No.1になってしまったんだ。20才で選手なら誰もが抱く夢を実現してしまった。だからその後What's next?という感じで目標がなくなってしまったんだ。」

「僕に感情をコントロールしろ!と皆は言うけど、今度僕が無表情になると、一体どうした!といってくる。僕はどうしてよいのか分からない!」

「トーナメントでは24時間テニスのことが頭にあって、ストレスがたまりっぱなし。この点が僕がテニスを嫌いな点なんだ。」

そんな苦悶のマラットに「天才的な才能があるのに・・・なぜ勝てない!」と問いつめることをやめなかった私たち。幻のテニスを負い続けてきたのは、本当はマラットではなくて私たちだったのかもしれません。

スポーツが嫌い
「本当は僕はスポーツが嫌いなんだ。サッカーやホッケーはやらないし、バスケットボールは嫌いだし。TVでもスポーツは見ない。だから僕がテニス選手だなんて驚きだよね。僕はコンペティションが嫌いなんだ。友だちとサッカーをやっても10分ともたない。すぐ飽きるんだよ。だから僕はスポーツ選手じゃないんだ。」

フェデラーのすごいのは、本当にテニスをエンジョイしていることだ。テニスを愛している。そしていつもトップでありたいという気持ち。これは僕には分からない。」

マラットは勝敗にこだわるスポーツに向いていなかったのです。だから勝った負けたと大騒ぎをするスポーツに関心がなかったのでしょう。彼はプロセスを大切にするアーチストだったと思います。

「僕がテニスをこれだけ長くしかも高いレベルを保てたのは奇跡なんだよ!」

「自分らしく生きたい!」といつも語っていたマラット。テニスを去ることによって、マラットの自己発見の旅が始まろうとしています。

「テニスが僕から去っていくのではなくて、僕がテニスから去っていくのだよ。」

美しい容姿。理想的な体型。フェアで真っ正直。正義感に溢れた熱血男。独特のスパイスのきいたユーモア。選手から敬愛された人気者。そしてラケットをぶつけても憎まれなかった唯一の選手。

「僕がこれから何をやっていくのかまだかわからないけれど、テニスで成功した10分の1でもよいから、僕の第2の人生が成功すれば嬉しい。」

荒々しくて繊細。パワーフルでソフト。強くて弱いメンタル。限りなく複雑でシンプルな生のマラットを体現したサフィンテニスを12年間観戦できた私たちは幸せでした。

ありがとう!Спасибо (スパシーバ)
そしてGood luck! Удачи  (ウダチ)


ジョン・マッケンローとマリー・カリロの名コンビの解説で、USオープン2000決勝のハイライトをお楽しみください。

(パート1)




(パート2)










投稿者 Tennisnakama  10:21 | コメント(0)| トラックバック(0)
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