2009年07月09日
ラリー・ステファンキ
ラリー・ステファンキは元アメリカンフットボールのQBのジョン・ブローディ(義理の兄)のアドヴァイスを座右の銘にしています。
“Get out of your comfort zone.” 「自分の心地よいゾーンから出なくてはならない」
「カンフォート・ゾーンを出てみなければ、真の自分のテニスのレベルは分からない。ロシアに行く。ヨーロッパに行く。アフリカに行ってみる。いろんなところで劣悪ボールを打って、凸凹のコートでプレーして、ひどいアンパイアのもとで戦って初めて、自分がどれだけプレーできるのか分かってくる。アメリカのジュニアは適切なアドヴァイスを受けていないように思う。ソフトすぎるんだ。」
ロディックのコーチになった直後、2009年1月にニューヨークタイムズでステファンキはこのように語っています。
http://www.nytimes.com/2009/01/19/sports/tennis/19stefanki.html
ジョン・マッケンロー(米)、カフェルニコフ(ロシア)、リオス(チリ)、ビヨークマン(スウェーデン)、ヘンマン(英)、ゴンザレス(チリ)と世界各国の選手を育てあげたステファンキは、厳しい環境で必死にトレーニングをしてきた選手たちと共に歩んできました。
ロディックは確かにステファンキがコーチに就任して以来、プレースタイルが変わりました。それだけでなくコートでの態度も大きく変わりました。自分の得意でないテニスに挑戦する。彼の変化のカギは、この“Get out of your comfort zone.”ではなかったかと思うのです。
コーチのインタービューを見つけるのは至難の技ですが、ウィンブルドン決勝の二日前に行われたコーチ・ステファンキのインタービューが見つかりましたのでご紹介します。
2009年7月3日準決勝ロディックvsマレー戦の直後に行われたインタービューで、ステファンキの素顔を知るめずらしいインタービューとなっています。
insidetennis.comのインタービューより要約
http://www.insidetennis.com/2009/07/world-exclusive-larry-stefanki-interview/
Larry Stefanki
Q: これからフェデラーとの決勝ですが、フェデラーとの対戦記録は2勝18敗ですね。
ステファンキ:今まで20回対戦していて、この試合が21回目になるから、1から始まる新しいスタートと考えればいい。アンディがロジャーと最後にウィンブルドンで戦ったのは2005年で、これはとっくの昔の話だ。だから今回は全く新しい00の対戦成績と考えてフレッシュなスタートだ。
Q:アンディのコーチイングは最もやりがいがありますか?
ステファンキ: Yes, yes.
Q: 彼はよい生徒ですか?
ステファンキ: よい生徒だ。頑固だけれどね。チャンピオンとしての素質に恵まれている。彼がチャンピオンとなるのに時間がかかっているが、今そのページを一枚一枚めくりながらたどり着こうとしているところだ。アンディーはよくいうことを聞くし、よく吸収している。彼のテニスは健全だし、彼を観ているのは楽しいよ。こういったことが大切なんだ。
Q: アンディは冷静でパニックになることがなくなりましたね。
ステファンキ:これはよく彼に話してることなんだ。今まで38のGSの試合に出ているのに、まるで初めて出るような感じじゃないか、ってね。ベストサーヴァーなんだから、コートに出たらもっと自由な気持ちでエンジョイするべきだ。もっと体をゆったりとリラックスさせてね。誰もがミスをする。でもアンディーは自分に厳しすぎるんだ。でもこの数ヶ月でアンディーの態度は変わったよ。
Q: トム・ストーは今日のアンディをみて喜んでいるでしょうね。(Tom Stowはステファンキに、テニスの基本を徹底して教えた伝説のコーチ)
ステファンキ:いろいろ技術的な弱点はあるけれど、僕はあまり技術的なことはアンディには言っていない。細かいことよりもテニスの基本である「思考のプロセス」に焦点をあわせてきた。
皆が彼のバックハンドがまずいと言っているが、7ヶ月間バックハンドのリターンを練習したおかげで、ずいぶんとリターンゲームがよくなった。新しいバックハンドをマスターするために、筋肉が記憶するまで何度も打つ必要があった。球が200kmくらいの速さでやってくるので、考えている時間はないからね。マッスルメモリーにたよるしかないんだ。
トム・ストーはいつもテニスは効率だと強調していた。つまり下半身はアンカーなんだ。もしアンカーがふらついていたら、次の球は打てない。アンディはそのことを今まで考えたこともなかったらしい。でも彼はとても賢いから、効率よいテニスをしようとしている。
Q: 彼は今までのすべての経験が実って期待できそうですね。
ステファンキ:アンディはデ杯で勝って、GSも優勝している。彼はすばらしい選手で今までの経験が実ってこようとしている。それにリラックスできるようにもなった。コートの中では昔のロディックはなく成熟した選手の姿がある。僕はそんなロディックをとても誇りに思っているよ。彼は今まで何年もメディアやファンのハイプの渦中にあって冷静になれなかった。でも僕は何度も彼に言い聞かせた。
「自分にとって静かで心が安まるスペースを見つけなければならない。そしてそれに身をまかせることだ。」
Q: マレーとの準決勝では、ブレークポイントをセーヴして、一段とステップアップしたようですが。
ステファンキ:バックハンドのリターンがフォアハンドよりもよくて、かなりこれで救われた。
あとはボディーサーヴ(サーヴが速くて身をかわすことがむずかしい)。今までは両サイドに47%のサーヴでボディーサーヴが6%しかなかった。20%くらいボディーめがけたサーヴをやってネットダッシュするべきだ。そしてあとはヴォレーだ。最初は苦手なヴォレーでも打っていれば好きになる。そうすればヴォレーを打ちたくなってくるものだ。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
このインタービューはフェデラーとの決勝の前に行われたものです。ロディックはステファンキの期待に応えて、決勝ではバックハンドのダウンザラインでウィナーをとりまくり、ボディーサーヴをガンガン打ってフェデラーのリターンゲームを撹乱しました。フットワークも軽く、スウィングもコンパクトでシャープさが増しました。
ロディックの最も大きな変化は、あの冷静で落ち着いた態度です。決勝戦ではロディックはまるで修行僧のようでもありました。
今まで幾人ものコーチのもとで、何度もトライしたにも拘らず実践できなかった数々のことが、どうしてステファンキのもとで、すべてが突然形をなしてきたのでしょうか? 私はその答えはブルックリンだと思うのです。
ロディックを変えた人たち:ブルック(妻ブルックリン)
私たちは何かと言えばすぐ技術や作戦に勝因を求め、心の支え、無条件のサポートの大きさを忘れがちです。サンプラスが勝てない辛い2年間を経て14個のタイトルをとることができたのも、献身的な愛情を捧げつづけた愛妻ブリジットの存在があったからです。フェデラーもミルカの献身的なサポートがあってこそ、15のタイトルの偉業を成し遂げられたのです。
恋愛、婚約、結婚によって、ロディックが大人になりました。あのバッドボーイから成熟した男に成長したロディックは、初めてテニスというスポーツが分かりかけてきたのではないでしょうか。
「僕は負けても悲しくないよ。多くの人たちの夢を僕は生きるているのだから。」
ステファンキの説くテニスの基本「思考のプロセス」を理解し始めたロディックに、ぜひ彼の夢を実現させてほしいとおもいます。
“Get out of your comfort zone.” 「自分の心地よいゾーンから出なくてはならない」
「カンフォート・ゾーンを出てみなければ、真の自分のテニスのレベルは分からない。ロシアに行く。ヨーロッパに行く。アフリカに行ってみる。いろんなところで劣悪ボールを打って、凸凹のコートでプレーして、ひどいアンパイアのもとで戦って初めて、自分がどれだけプレーできるのか分かってくる。アメリカのジュニアは適切なアドヴァイスを受けていないように思う。ソフトすぎるんだ。」
ロディックのコーチになった直後、2009年1月にニューヨークタイムズでステファンキはこのように語っています。
http://www.nytimes.com/2009/01/19/sports/tennis/19stefanki.html
ジョン・マッケンロー(米)、カフェルニコフ(ロシア)、リオス(チリ)、ビヨークマン(スウェーデン)、ヘンマン(英)、ゴンザレス(チリ)と世界各国の選手を育てあげたステファンキは、厳しい環境で必死にトレーニングをしてきた選手たちと共に歩んできました。
ロディックは確かにステファンキがコーチに就任して以来、プレースタイルが変わりました。それだけでなくコートでの態度も大きく変わりました。自分の得意でないテニスに挑戦する。彼の変化のカギは、この“Get out of your comfort zone.”ではなかったかと思うのです。
コーチのインタービューを見つけるのは至難の技ですが、ウィンブルドン決勝の二日前に行われたコーチ・ステファンキのインタービューが見つかりましたのでご紹介します。
2009年7月3日準決勝ロディックvsマレー戦の直後に行われたインタービューで、ステファンキの素顔を知るめずらしいインタービューとなっています。
insidetennis.comのインタービューより要約
http://www.insidetennis.com/2009/07/world-exclusive-larry-stefanki-interview/
Larry Stefanki
Q: これからフェデラーとの決勝ですが、フェデラーとの対戦記録は2勝18敗ですね。
ステファンキ:今まで20回対戦していて、この試合が21回目になるから、1から始まる新しいスタートと考えればいい。アンディがロジャーと最後にウィンブルドンで戦ったのは2005年で、これはとっくの昔の話だ。だから今回は全く新しい00の対戦成績と考えてフレッシュなスタートだ。
Q:アンディのコーチイングは最もやりがいがありますか?
ステファンキ: Yes, yes.
Q: 彼はよい生徒ですか?
ステファンキ: よい生徒だ。頑固だけれどね。チャンピオンとしての素質に恵まれている。彼がチャンピオンとなるのに時間がかかっているが、今そのページを一枚一枚めくりながらたどり着こうとしているところだ。アンディーはよくいうことを聞くし、よく吸収している。彼のテニスは健全だし、彼を観ているのは楽しいよ。こういったことが大切なんだ。
Q: アンディは冷静でパニックになることがなくなりましたね。
ステファンキ:これはよく彼に話してることなんだ。今まで38のGSの試合に出ているのに、まるで初めて出るような感じじゃないか、ってね。ベストサーヴァーなんだから、コートに出たらもっと自由な気持ちでエンジョイするべきだ。もっと体をゆったりとリラックスさせてね。誰もがミスをする。でもアンディーは自分に厳しすぎるんだ。でもこの数ヶ月でアンディーの態度は変わったよ。
Q: トム・ストーは今日のアンディをみて喜んでいるでしょうね。(Tom Stowはステファンキに、テニスの基本を徹底して教えた伝説のコーチ)
ステファンキ:いろいろ技術的な弱点はあるけれど、僕はあまり技術的なことはアンディには言っていない。細かいことよりもテニスの基本である「思考のプロセス」に焦点をあわせてきた。
皆が彼のバックハンドがまずいと言っているが、7ヶ月間バックハンドのリターンを練習したおかげで、ずいぶんとリターンゲームがよくなった。新しいバックハンドをマスターするために、筋肉が記憶するまで何度も打つ必要があった。球が200kmくらいの速さでやってくるので、考えている時間はないからね。マッスルメモリーにたよるしかないんだ。
トム・ストーはいつもテニスは効率だと強調していた。つまり下半身はアンカーなんだ。もしアンカーがふらついていたら、次の球は打てない。アンディはそのことを今まで考えたこともなかったらしい。でも彼はとても賢いから、効率よいテニスをしようとしている。
Q: 彼は今までのすべての経験が実って期待できそうですね。
ステファンキ:アンディはデ杯で勝って、GSも優勝している。彼はすばらしい選手で今までの経験が実ってこようとしている。それにリラックスできるようにもなった。コートの中では昔のロディックはなく成熟した選手の姿がある。僕はそんなロディックをとても誇りに思っているよ。彼は今まで何年もメディアやファンのハイプの渦中にあって冷静になれなかった。でも僕は何度も彼に言い聞かせた。
「自分にとって静かで心が安まるスペースを見つけなければならない。そしてそれに身をまかせることだ。」
Q: マレーとの準決勝では、ブレークポイントをセーヴして、一段とステップアップしたようですが。
ステファンキ:バックハンドのリターンがフォアハンドよりもよくて、かなりこれで救われた。
あとはボディーサーヴ(サーヴが速くて身をかわすことがむずかしい)。今までは両サイドに47%のサーヴでボディーサーヴが6%しかなかった。20%くらいボディーめがけたサーヴをやってネットダッシュするべきだ。そしてあとはヴォレーだ。最初は苦手なヴォレーでも打っていれば好きになる。そうすればヴォレーを打ちたくなってくるものだ。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
このインタービューはフェデラーとの決勝の前に行われたものです。ロディックはステファンキの期待に応えて、決勝ではバックハンドのダウンザラインでウィナーをとりまくり、ボディーサーヴをガンガン打ってフェデラーのリターンゲームを撹乱しました。フットワークも軽く、スウィングもコンパクトでシャープさが増しました。
ロディックの最も大きな変化は、あの冷静で落ち着いた態度です。決勝戦ではロディックはまるで修行僧のようでもありました。
今まで幾人ものコーチのもとで、何度もトライしたにも拘らず実践できなかった数々のことが、どうしてステファンキのもとで、すべてが突然形をなしてきたのでしょうか? 私はその答えはブルックリンだと思うのです。
ロディックを変えた人たち:ブルック(妻ブルックリン)
私たちは何かと言えばすぐ技術や作戦に勝因を求め、心の支え、無条件のサポートの大きさを忘れがちです。サンプラスが勝てない辛い2年間を経て14個のタイトルをとることができたのも、献身的な愛情を捧げつづけた愛妻ブリジットの存在があったからです。フェデラーもミルカの献身的なサポートがあってこそ、15のタイトルの偉業を成し遂げられたのです。
恋愛、婚約、結婚によって、ロディックが大人になりました。あのバッドボーイから成熟した男に成長したロディックは、初めてテニスというスポーツが分かりかけてきたのではないでしょうか。
「僕は負けても悲しくないよ。多くの人たちの夢を僕は生きるているのだから。」
ステファンキの説くテニスの基本「思考のプロセス」を理解し始めたロディックに、ぜひ彼の夢を実現させてほしいとおもいます。
Go Andy!
2009年07月09日
ロディックを変えた人たち:ステファンキ
ここでロディックの今までのランキングを振り返ってみたいと思います。
2003年8月
US Openに優勝(ロディックは当時4位)
2003年11月
初めて1位に。しかし9週間後に2位へ落ちる。
2004年2006年
2位から3位へ
2006年6月26日
ジミー・コナーズをコーチに雇う
しかしランキングは下降線をたどり、3位から6位へ
2008年3月
コナーズ辞任。デ杯キャプテンのパトリック・マッケンローがアドヴァイザーになるが、しばらくコーチ無しとなる。
2008年12月
ラリー・ステファンキがコーチに就任
このときのロディックは9位にまで転落。
2009年7月現在
ウィンブルドン決勝、惜しくもフェデラーに敗れる
現在のランキング6位
ジミー・コナーズは、ロディックのフルタイムのコーチとしてツアーに参加することに最初から躊躇していました。家族と共に過ごす時間が少なくなってしまうからです。一方ロディックの方もフルタイムでツアーを共にまわってもらわなければ、肝心な試合のときのアドヴァイスがもらえません。このように二人の要求が噛み合ず、22ヶ月続いたコナーズのコーチングは2008年3月に友好関係を保ちながら終止符を打ちました。
ロディックはすでに26歳。彼の夢はグランドスラムのタイトル。しかし2008年の5月以来肩の故障で、シンシナティのマスターズも棄権せざるをえなくなり、ランキングも最悪9位まで転落してしまいました。
このときに、婚約者だったブルックリン・デッカーに正直に打ち明けて相談しました。「このままタイトルをとれないで、駄目になっていくかもしれない。でも僕はもう一度トライしてみたい。それでもいいかい?」
ブルックリンはスーパモデルです。彼女のキャリアもあります。しかし一線で活躍するブルックリンはロディックの気持ちが痛いほど理解できました。「よし、やろう!」ロディックは彼女の大きな愛に支えられて、もう一度新しいコーチを迎えてやり直すことに決心したのです。
その頃、ラリー・ステファンキ(51歳、アメリカ人)は、チリの選手のフェルナンド・ゴンザレスのコーチとして、大きな成果をあげていました。しかしロディックがステファンキにアプローチしているのを知ったゴンザレスは、ステファンキにとっても大きなチャンスとなると分かっていましたので、快くステファンキをロディックに譲ったのでした。
ステファンキは選手時代のベストのランキングが35位の転々と小規模のツアーをまわるいわゆるジャーニーマンの選手でした。しかし同世代で友だちのジョン・マッケンローのコーチをし始めて以来コーチングに目覚め、カフェルニコフとマルセル・リオスの二人をNo.1にすることに成功。今では世界のコーチのベスト10に入る名コーチに数えられています。
さて、ステファンキがロディックのコーチに就任したのは2008年12月。ロディックが変わった! 約7ヶ月間に何がロディックに起こったのでしょうか?
ロディックがステファンキに会ったときに宣言しました。
「I’m all yours!」「僕は何でも言うことを聞きます!」
ステファンキはさっそく命令しました。
「それじゃ、さっそく15ポンド減らしてもらおうか。」
当時は200ポンド以上のヘヴィー級だったロディックは慌てて抗議しました。
「そんな!それは無理ですよ。僕が痩せていた21歳のときの体重なんだから。」
しかしステファンキはそしらぬ顔で言いました。
「だから君は21歳のときにUS Openで優勝できたんだよ。」
ウィンブルドン準決勝で、アンダードッグだったロディックがマレーに勝ち、決勝ではフェデラーに5セットのフルセットまで迫りました。私たちにとっては意外なロディックの活躍でしたが、ステファンキにとってはトレーニングの当然な結果だったようです。
ではどのようなトレーニングだったのでしょうか?
次回はマレー戦直後に行われたステファンキのインタービューを紹介したいと思います。
2003年8月
US Openに優勝(ロディックは当時4位)
2003年11月
初めて1位に。しかし9週間後に2位へ落ちる。
2004年2006年
2位から3位へ
2006年6月26日
ジミー・コナーズをコーチに雇う
しかしランキングは下降線をたどり、3位から6位へ
2008年3月
コナーズ辞任。デ杯キャプテンのパトリック・マッケンローがアドヴァイザーになるが、しばらくコーチ無しとなる。
2008年12月
ラリー・ステファンキがコーチに就任
このときのロディックは9位にまで転落。
2009年7月現在
ウィンブルドン決勝、惜しくもフェデラーに敗れる
現在のランキング6位
ジミー・コナーズは、ロディックのフルタイムのコーチとしてツアーに参加することに最初から躊躇していました。家族と共に過ごす時間が少なくなってしまうからです。一方ロディックの方もフルタイムでツアーを共にまわってもらわなければ、肝心な試合のときのアドヴァイスがもらえません。このように二人の要求が噛み合ず、22ヶ月続いたコナーズのコーチングは2008年3月に友好関係を保ちながら終止符を打ちました。
ロディックはすでに26歳。彼の夢はグランドスラムのタイトル。しかし2008年の5月以来肩の故障で、シンシナティのマスターズも棄権せざるをえなくなり、ランキングも最悪9位まで転落してしまいました。
このときに、婚約者だったブルックリン・デッカーに正直に打ち明けて相談しました。「このままタイトルをとれないで、駄目になっていくかもしれない。でも僕はもう一度トライしてみたい。それでもいいかい?」
ブルックリンはスーパモデルです。彼女のキャリアもあります。しかし一線で活躍するブルックリンはロディックの気持ちが痛いほど理解できました。「よし、やろう!」ロディックは彼女の大きな愛に支えられて、もう一度新しいコーチを迎えてやり直すことに決心したのです。
その頃、ラリー・ステファンキ(51歳、アメリカ人)は、チリの選手のフェルナンド・ゴンザレスのコーチとして、大きな成果をあげていました。しかしロディックがステファンキにアプローチしているのを知ったゴンザレスは、ステファンキにとっても大きなチャンスとなると分かっていましたので、快くステファンキをロディックに譲ったのでした。
ステファンキは選手時代のベストのランキングが35位の転々と小規模のツアーをまわるいわゆるジャーニーマンの選手でした。しかし同世代で友だちのジョン・マッケンローのコーチをし始めて以来コーチングに目覚め、カフェルニコフとマルセル・リオスの二人をNo.1にすることに成功。今では世界のコーチのベスト10に入る名コーチに数えられています。
さて、ステファンキがロディックのコーチに就任したのは2008年12月。ロディックが変わった! 約7ヶ月間に何がロディックに起こったのでしょうか?
ロディックがステファンキに会ったときに宣言しました。
「I’m all yours!」「僕は何でも言うことを聞きます!」
ステファンキはさっそく命令しました。
「それじゃ、さっそく15ポンド減らしてもらおうか。」
当時は200ポンド以上のヘヴィー級だったロディックは慌てて抗議しました。
「そんな!それは無理ですよ。僕が痩せていた21歳のときの体重なんだから。」
しかしステファンキはそしらぬ顔で言いました。
「だから君は21歳のときにUS Openで優勝できたんだよ。」
ウィンブルドン準決勝で、アンダードッグだったロディックがマレーに勝ち、決勝ではフェデラーに5セットのフルセットまで迫りました。私たちにとっては意外なロディックの活躍でしたが、ステファンキにとってはトレーニングの当然な結果だったようです。
ではどのようなトレーニングだったのでしょうか?
次回はマレー戦直後に行われたステファンキのインタービューを紹介したいと思います。